庵野秀明のドキュメンタリーを観ていたら、ある学生から「やりたいことがあるのですが、親から現実をみろ!といわれてしまって・・・・・将来についてどう考えたらいいのでしょうか?」と質問される場面がありました。
『現実を見ろ!』という主張は、理想について考える気力を奪う説得力があります。しかし本当に『現実を見ろ!』というような主張に、盲目的に従う必要があるのでしょうか?
理想論と現実の話
フロイトやユングとならび、心理学の三大巨頭の一人である「アルフレッド・アドラー」の思想について学べる「嫌われる勇気」を読んでいると、『現実』という単語があらゆるところで登場します。
たとえば「世界はどこまでもシンプルである」と主張する哲人に対して、青年は「理想論としてではなく、現実の話として、そう主張されているのですか?」と質問しています。
青年にとっての現実は、醜いものであり、複雑なものであり、なおかつ希望のないものです。だからこそ「世界はどこまでもシンプルである」と主張する哲人に対して、青年は「現実を直視せよ!」を反論しているのです。
青年の主張に対して哲人は「人は誰しも、客観的な世界に住んでいるのではなく、自らが意味づけをほどこした主観的な世界に住んでいます」と説明しています。
哲人の主張は、ようするに「あなたはあなた、わたしはわたし」という主張です。ひろゆき氏なら「それはあなたの感想ですよね?」と反論するのかもしれませんが・・・・・あまりピンとこない人も多いのではないでしょうか?
もしあなたに心当たりがあるなら、吉野源三郎さん(以下、敬称略)のエッセイをおススメします。
理想と現実
吉野源三郎といえば、「君たちはどう生きるか」という小説が有名です。宮崎駿監督の映画「君たちはどう生きるか?」のなかでも、登場するのでご存知な方も多いはずです。
吉野源三郎は「君たちはどう生きるか」があまりにも有名なので、その他の著書はあまり話題にならないのですが、『理想と現実』というエッセイは、とても参考になります。
『理想と現実』というエッセイは、「若い労働者のため」に書かれたものですが、すべての労働者にとって参考になる話が展開されているので、ざっくり紹介したいと思います。
エッセイ『理想と現実』は、労働者の現実的な嘆きからはじまります。
社会の仕組みは、金のあるところには、ますます金が集まるようにできているらしい。(中略)
あきれたことには、会社の出ししぶった金額の何倍という金が、政治資金として大政党に献金されているという。軍備をもたないはずの日本で、社会保障の予算は削られても、防衛費はドカッと認められ、毎年使い切れないでこまっているという。
人間を信じる
『理想と現実』が公表されたのは1970年ですが、自民党の裏金問題や防衛費倍増が問題視されている現代日本でも、そのまま通用しそうな語り口なので、驚く人もいるでしょう。
さて・・・・・理不尽な現実に対して、どのように向き合ったらよいのでしょうか?
「どうせ世の中とはこんなもので、変わりっこない。だから世の中に逆らわず、うまくやって、自分の幸せをつかまえていく方が賢明だ」と考えるのがよいでしょうか?
それとも「世の中に不条理があるほうがオカシイ。変わらなければいけないのは、わたしたちの考え方ではなくて世の中のほうだ」と考えるのがよいでしょうか?
もしくは「政府や資本家だけでなく、労働組合も野党もけっきょくは自分たちのご都合主義。あまり深く考えずに、適当にやり過ごすのがいい。みんな、そうやっているんだ」と割り切って考えるのがよいでしょうか?
歴史を振り返ろう
わたしたちの日常節活の範囲であれば、親子、兄弟、友人どうしの関係などは、心がけや努力次第でずいぶん変えられることは実感できるでしょう。
しかし「社会的な現実」については、個人にとってはあまりに大きすぎるため、「考えるだけムダ」という気分になるのも、致し方ないような気がします。
やっぱり「考えるだけムダ」なのでしょうか?
吉野源三郎のアドバイスは、「歴史を振り返ろう」です。歴史を振り返れば・・・・・武士が社会を支配し、町人や農民が大名の行列の前に土下座しなければならなかった時代がありました。
しかも1970年当時にあっては、武士が社会を支配していた時代は、そう遠い昔ではなく、つい百年前までそうだったのです。
明治になっても、労働者が団結して組合をつくることは禁止されていました。社会主義を唱えれば「非国民」として弾圧されるのは当たり前でした。そういう状況は、太平洋戦争の終わりまで続いていました。
吉野源三郎が何をいいたかったのかといえば、・・・・・ちょっと昔までは、日本人の大多数が、動かしのつかない現実、抵抗したがたい現実と認めていたものは、いまとなっては姿かたちもなく、新しい現実が生まれているということです。
不動の現実はない
歴史を振り返ってわかることは、「不動の現実などというものは存在しない」ということです。
結論。「現実を見ろ!」と声高に主張する輩こそ、現実を見るべし!