そこまで言うほど名著ではないですね。科学的根拠がほとんどなく、根性論と極論が目立つ本でした。個人的には正直あまり得られるものがなかったです。
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『アドラー心理学は古い』という意見がある一方で、嫌われる勇気にはこんな記述があります。
時代を100年先行したともいわれるアドラーの思想には、まだまだ時代が追いつききれていません。彼の考えは、それほど先駆的なものでした。
嫌われる勇気
果たして、アドラーの思想のどのあたりが先駆的だったのでしょうか?
心理学の歴史
心理学の歴史を振り返ると、アドラーの思想のどのあたりが先駆的だったか理解できるはずです。
記述主義
フロイトやユングなどがはじめた最初の心理学における研究方法は、『記述主義』でした。
記述主義とは、患者の話を聞いたり、患者を観察したりして、人間の心を理論化しようとする挑戦のことですが、残念ながら人間の心を理論化することは叶いませんでした。
フロイトやユングの時代の心理学は、科学というよりはむしろ「感想」に近いものだったのです。
行動主義
行動主義とはいわば入力(刺激)と出力(反応)だけをみて、人間の心を理解しようとする態度のことです。しかし問題点もあります。
例えば誰かを1回殴ったら驚き、2回殴ったら怒り、3回殴ったら死ぬとします。この観察結果をもとに、「人間は1回殴ると驚く。2回殴ると怒る。3回殴ると死ぬ」などと人間を定義してもあまり意味がないことは明らかだと思います。
もちろん極端な事例ですが、似たようなことがずっと行われてきたのです。たとえば「嫌われる勇気」において、青年は「コーヒーをこぼされたので怒鳴った」という実体験を「S-Rモデル」により正当化しようとしています。
認知科学
心理学の世界では長い間、行動主義が主流だったため、ひらすら入力(刺激)と出力(反応)の関係だけで、心理的な法則性を導き出そうとしてきました。しかしそもそも入力と出力の組み合わせは無限にあります。
入力(刺激)と出力(反応)の間にあるメカニズムを無視して、法則性を導き出そうとしてもやっぱり難しいのではないか?ということで1970年代後半から1980年代前半に誕生したのが『認知科学』という学問です。
認知科学では、入力(刺激)と出力(反応)ばかりを観察するのではなく、入力(刺激)と出力(反応)の間にあるなにかしらの「機能」に着目します。7つの習慣で「刺激と反応のモデル」と対比する形で紹介されている『主体性のモデル』のイメージです。
『主体性のモデル』で「選択の自由」と表現されているものを、認知科学者たちは脳、あるいは心の中で「ファンクション(機能)」が働いていると考えました。
英語の「ファンクション(function)」という言葉は、普通に訳せば「機能」ですが、数学用語の「関数」という意味もあります。数学の授業でならう『y=f(x)』におけるfがまさに「関数」です。
つまり行動主義の時代には入力「x」と出力「y」だけを見て、「f」については存在自体を無視していたのですが、認知科学はこの「f」を解明しようとしたのです。
アドラーの思想の先進性
「嫌われる勇気」や「幸せになる勇気」を読めば、フロイトやユングと同時代に生きたアドラーが、認知科学的な視点で人間を認識しようと努力していたことがわかるのではないでしょうか。
例えば「子どもを叱ったら(入力)、態度がよくなる(出力)」というような行動主義的なパラダイムで子どもの教育をとらえるのではなく、アドラーは、子どもであっても大人であっても刺激に対する反応には選択の自由があることを喝破していたのです。
主体性のモデルにおける『選択の自由』、認知科学における『機能(ファンクション)』は、アドラーの思想では『ライフスタイル』という用語で説明されています。
あなたはどのようなライフタイムを構築したいですか?