オン・ザ・ハイウェイ その夜、86分 ~ 『悲劇』が直撃する体験

オン・ザ・ハイウェイ

あなたには他人のふるまいをみて「こんな風にはなりたくない」と思ったことはありませんか?

わたしの父は九州男児で、わたしの母も九州出身でした。ですからわたしは典型的な「亭主関白」の家庭で育ちました。

わたしの父は目の前にあるテレビのリモコンですら自分で手を伸ばして取ろうとはしませんでしたし、周囲に怒鳴り散らしていることも珍しくありませんでした。(その理由がよくわからないから周囲はさらに困惑するのでした。)

12歳までは「それが普通」なんだと信じてい疑いもしませんでしたが、その後、「かかか天下」の家庭を目撃することでわたしの常識は破壊されるのでした。

わたしはある時まで、わたしの父を「反面教師」として生きてきました。しかし「父のようになりたくない」という反発こそが「呪い」であることに気づくのにそれほど時間はかかりませんでした。

父のようになりたくないと願ってもがくほど、父のことを思い出すというジレンマに苛まれるのです。わたしは蟻地獄でもがくアリのような生き方から、なんとかして脱皮したいと思いました。

あなたには反面教師にしたい人がいませんか?「ああはなりたくない」と思えば思うほど、「そうなってしまう」とか「そのことが忘れられない」(呪い)というジレンマに苦しんでいませんか?

もし少しでも共感する点があるなら、まさに過去(父)の呪いに苦しめられる一人の男性を描いた映画をチェックしてください。

予告動画

MEMO

仕事帰りのエリートサラリーマンのアイヴァン(演:トム・ハーディ)が、妻と子供の待つ家庭に帰らずに、浮気相手に会いにいくことを決断するというストーリー。

もちろんアイヴァンの決断が、仕事とプライベートに深刻な影響を与えます。部下は困惑し、上司は怒り狂います。奥さんからもブチギレられます。果たしてアイヴァンの未来はどうなってしまうのか?

映画が描くもの

この映画では大きな事件は描かれません。ある男が出張先で浮気して、それが妻にバレて子どもを巻き込んだ騒動になるとか、仕事を辞める決断をして常識に怒られるとか、映画やドラマの世界でなくても「ありそうな話」です。

ありそうな話の連続で、この映画は何を描きたかったのでしょうか?

原題の『Locke』にそのヒントがあります。Lockeとは歴史の教科書でおなじみのジョン・ロックのことでしょう。

ジョン・ロックの社会契約や抵抗権についての考え方はアメリカ独立宣言にも大きな影響を与えたし、経済学の核となる「私有財産権」を正当化した人物としても有名です。

しかしこの映画のタイトルで『ロック』(原題:Locke)を利用したのは、政治や経済といったテーマではなく、『イギリス経験論の父』と名高い哲学者ジョン・ロックの思想を描きたかったからでしょう。

経験論

経験論とは「アポステリオリ」だけが信じられるとする立場です。アポステリオリとは「経験を通じて獲得したもの」のことであり、共通感覚を重視するのが経験論の立場です。

その一方で経験論と対比される思想がフランスを中心とする大陸合理論です。大陸合理論はアプリオリを認める立場をとります。アプリオリとは「経験に先立つもの」であり、普遍原則を重視する立場です。

あなたは経験論の立場でしょうか?それとも大陸合理論の立場でしょうか?

もしあなたがキリスト教信者であれば迷わず大陸合理論を選択するでしょう。なぜならば神を信じなければキリスト教信者になれませんし、神とはアプリオリなものに他ならないからです。

逆にもしあなたがキリスト教信者でもなく、無宗教な立場をとるならば、経験論の立場をとる可能性が高いでしょう。

そしてもしあなたが経験論の立場を採用しているならば、「最初から正しいことが確定しているようなあり得ず、物語の結末というものは選択を積み重ねによって少しずつ明らかになるのだ」という考えを自然と受け入れているはずです。

さて以上の知識が、この映画を理解する上での前提知識です。早速本題に入りましょう。

父親の亡霊

映画の日本語タイトル「オン・ザ・ハイウェイ その夜、86分」にあるように、映画のほとんどのシーンにおいて、主人公のアイヴァン(演:トム・ハーディ)は高速道路をドライブしています。

アイヴァンは高速道路に「乗る」という選択をするし、過去の浮気を妻に「告白する」という選択をするし、仕事を「辞める」という選択をします。

映画を観ている観客の多くはアイヴァンの下した決断の結果を、「最後はどうなるのだろう?」とハラハラドキドキしながらいわば経験論の立場で見守るでしょう。

しかし作品を鑑賞するにつれ、「アイヴァンの下す決断の帰結があらかじめ方向づけられていた」かのような錯覚に陥り、観客の多くは経験論の立場のままでいることに居心地の悪さを感じるはずです。

その居心地の悪さこそ、この映画が描きたかったものでしょう。

居心地の悪さを理解する鍵を握っているのは『アイヴァンの生い立ち』です。どうやらアイヴァンは捨て子らしいのですが、自分が捨て子であったという過去の経験が、アイヴァンの決断に影響を与えているらしいことが、作品を鑑賞するにつれてわかってきます。

フロイトが強調するように、人間には不愉快な幼児体験を無意識の彼方に追い出してしまって記憶に止めないという傾向があります。

しかし無意識の幼児体験は、一見、何の痕跡もとどめないようでありながら、実は強烈なコンプレックスとなってそれ以降のひとの生活を支配するのです。

アイヴァンにとっての幼児体験は「捨て子コンプレックス」なるものであり、そのコンプレックスが愛する妻子と子どもだけでなく、重要な仕事を放棄させる強い原動力になっているのです。

そこに経験論のほころびがあることを見過ごしてはいけません。

経験論では「経験に先立つものはない」という考え方を否定します。しかしアイヴァンの「浮気相手のもとに向かう」という決断こそが、アイヴァンの過去の生い立ちによって説明されてしまうのもまた事実なのです。

わかりずらい部分なのでもっと具体的に説明しましょう。経験論の立場を守るのであれば、アイヴァンの下す決断もそこから導き出される未来の結末もどうとでもあり得たはずです。

しかしアイヴァンの行動を観察すればするほど、アイヴァンの決断はあらかじめ方向づけられていたのだと感じてしまうのです。

アイヴァンは過去の経験から「父親と同じ生き方を繰り返したくない」と強く願っていますが、その強すぎる願いが逆説的に「父親と同じ生き方を繰り返す」ことを方向付けてしまっているというわけなのです。

つまりこの映画は『locke』というタイトルにあるように、大陸合理論を否定し経験論を支持するようでありながら、経験論をも否定しているのです。

未規定さを受け入れよ

映画を観終わった観客の多くは、「これがアイヴァンにとってのベストな結末だったのだろうか?」、「ベストの結末でないとすればどうすればよかったのだろうか?」とモヤモヤすることでしょう。

なぜならばアイヴァンは自分の思い通りになるように奔走するのですが、結局のところその目論見のほとんどすべては失敗に終わってしまうからです。

妻と離婚する予定はなかったのに、、、、、会社とトラブルになる予定はなかったのに、、、、、といった具合です。

アイヴァンはどうすればよかったのでしょうか?

答え:コントロールできない不条理や不合理を受け入れよ

日本人の多くはアプリオリ(神の存在)を否定します。未来はどうなるかわからないからこそ、努力すれば報われると信じています。しかしどれだけ努力してもどうにもならない『未規定』(不条理や不合理)は残るのです。

アイヴァンはなぜ捨て子なのか?なぜ浮気をしてしまったのか?なぜ1回の過ちで子どもが生まれるのか???などたくさんの『なぜ?』のなかに、わたしたちはコントロール不可能な『未規定』を発見することができます。

未来は決まっているわけではないので「頑張れば報われる!!」と素朴に信じている人の期待を裏切るという意味では、ギリシャ悲劇にも共通するものがあります。

ギリシャ悲劇では「理不尽や不条理はただそこにゴロっとあるだけだ」という態度をとりますが、それはまさにアイヴァンが経験したものです。

そして一見すると計算可能な文明社会(近代社会)に生きているわたしたちも『未規定なもの』、『コントロールできないもの』からは逃れることができないのです。わたしたちはもっとそのことを自覚すべきでしょう。

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