日本の戦後復興のきっかけ ~ 吉田茂プランとアメリカの思惑

日本 戦後 復興

石原莞爾(いしはらかんじ)中将はかの戦争プラン「世界最終戦論」において、「世界最終戦争では日本が生き残る。世界は日本の下に統一される。」と唱えました。

しかしそのような壮大なプランを唱えた石原莞爾中将ですら終戦直後には「今後二十年間、日本は地獄になる。日本人はみんな百姓になれ。」と主張しました。

終戦直後の昭和20年の日本は「飢餓地獄」という言葉がぴったりなほど貧乏であり、1憶の日本国民が「飢餓で命を落とさないだけ幸せ」といった状況だったのです。

ですから終戦直後の日本において、日本が経済大国になるなんてことをいえば、こいつは気が狂ったと思われたはずです。

戦後日本の貧乏について

戦後日本の飢餓地獄について知りたい方は、以下の記事を参照してください。

戦後日本戦後日本の貧困エピソード

しかし当時SF作家ですら想像できなかった「あり得ないこと」が現実になりました。なぜ?日本は短期間で復興を果たすことができたのでしょうか?

吉田茂プラン

戦後日本人の合言葉は「日本再建」でした。日本再建とは、日本の経済力を戦前のレベルにまで戻すことを意味しています。

そこで思い出されるのが日英同盟です。戦前の大日本帝国が短期間のうちに明治初期の日本人が想像すらしないほどの世界的軍事大国となり、広大な西太平洋地域において制海権を獲得できた背景には、間違いなく日英同盟の存在がありました。

ですから吉田茂首相は、新たなる日本は日英同盟の復活の上に構築されなければいけないと考えたのです。

しかし明治時代と敗戦後では、時代が大きく異なります。日本を統治しているのは米軍であり、世界の支配権を握っているのもアメリカです。当時のアメリカのGNPは一国で世界の50%を超え、世界で唯一の核兵器保有国だったのです。

そこで吉田茂首相は、日本の同盟国の相手として英国ではなくアメリカをもってくることを想定しました。

また敗戦国である日本は戦争を放棄したわけですから、軍事大国として再建することは現実的ではありません。そこで吉田茂首相は、日本再建の手段を「軍事」から「経済」に置き換えたのです。

一大転機

これまでの話を整理すると、「日米同盟をベースとし、経済の分野で日本再建を目指す」。これが戦後日本の基本路線でした。

しかし日本がアメリカと仲良くしたいといっても、アメリカが日本の希望を叶える保証はどこにもありません。

実際問題、アメリカは日本を警戒していました。敗戦直後の飢餓地獄をなんとか生き延びている日本人に戦う気力なんてあろうはずがないのに、マッカーサーが刀狩を命じるほどに警戒していたのです。

当時のアメリカ人からすれば飢餓地獄にいる日本人でも油断はできなかったのです。なぜならば戦時中、資源小国の日本が戦前めっぽう強かったからです。

「資源小国の日本があれだけ強かったのだから、日本人に巨大な経済をもたせるなんてことは危険極まりない」とアメリカ人が考えるのは自然なことであり、日本は「潜在的敵国」という扱いだったのです。

しかし昭和25年に、すべての状況が一変するのでした。そう。朝鮮戦争が勃発したのです。

朝鮮戦争

朝鮮戦争は実質的に中国共産党とアメリカの戦いです。朝鮮動乱に義勇軍を派遣して介入した中国共産党は国連から侵略国と決めつけられ、アメリカ軍は国連軍の旗を掲げてこれを迎え撃とうとしました。

砂川裁判(昭和34年)を担当したことでも有名な田中耕太郎最高裁判官は、直ちに声明を発表し、「日本は国連軍を支援すべき」と唱えました。

とはいえアメリカ軍は世界最強です。アメリカ軍ですら「日本の助けなんて必要あるはずがない」と信じて疑っていなかったはずです。

しかしふたをかけてみれば、世界最強であったはずのアメリカ軍は中国共産党軍の人海戦術のまえに苦戦を強いられました。

そうなると思い出されるのは、わずかな兵力で中国の大軍を蹴ちらして連戦連勝を続けたかつての日本軍の勇姿です。「日本軍が同盟軍だったらどんなに心強いことだろう」とアメリカ側が考えたとしてもなんら不思議ではありません。

連合国最高司令官マッカーサー元帥は、対日占領政策を転換することを決断し、日本に再軍備を命じます。(マッカーサー書簡)

1950年には警察予備隊が発足し、これはやがて保安隊となり、最終的には自衛隊となり、今や立派な「軍隊」にまで成長しました。

最後に

朝鮮戦争が勃発するだけでなく、アメリカ軍が苦戦しなければ吉田茂プランが実現する可能性はほとんどなかったでしょう。

歴史にIFはないとはよくいわれることですが、日本がアメリカの同盟国ではなく、潜在的敵国として豊かになることを許されなかった可能性だって十分あるのです。