お金の歴史 ~ 文字の誕生から中央銀行の設立まで

お金の歴史

お金の歴史について解説します。

古代のお金

あなたは驚くかもしれませんが、古代からお金は存在していまいた。

しかも古代における「お金」の概念のほうが、中世における「お金」の概念よりも、現代の「お金」の概念に近いのです。まずはそのことを説明します。

文字の誕生

お金の正体が「債務と債権が記録されたデータ」であることは「信用創造とはなにか?」という文脈ですでに解説しました。

お金の正体が「データ(情報)」である以上、データを記録するツールである「文字」がお金の前提条件になることは明らかです。

考古学者によれば世界最古の文字はメソポタミアで誕生したといいます。メソポタミアとは現在のイラクとシリアのあたりです。

では文字を使って何を記録したのでしょうか?農民がそれぞれ共有倉庫に預けた穀物の量を記録していたのです。例えば台帳には「●●(あなたの名前)は100kgの穀物を預けた」などと記録していました。

そう。メソポタミア文明にはすでに、データとしてのお金は存在していたのです。

ちなみに、そもそも文字が生まれたのはそのような記録を残すためだったといわれています。ですから農耕が発達して余剰な食糧を確保する社会でのみ文字は生まれ、そうではない社会では文字は生まれなかったそうです。

例えば木の実も果物も肉も魚も十分にあったオーストラリアのアボリジニや南アフリカの先住民の社会では、音楽や絵画は発達しましたが文字は生まれませんでした。

仮想通貨のはじまり

仮想通貨という言葉は、日本でも平成の終わり頃から一般的になりました。しかし仮想通貨はメソポタミア時代から誕生していたのです。

メソポタミアでは、農民が労働の対価としてどれだけ支払いを受けられるか記録するために、実際にはありもしない仮想の通貨の量を台帳に書き入れていたそうです。例えば台帳には「●●(あなたの名前)は、硬貨10個分の穀物を受け取った」などと記録されていました。

しかし実際に硬貨がつくられたのは、それよりもずっと後になってからなのだそうです。ということは・・・台帳に記載された硬貨は取引をうながすための『想像上の硬貨』ということになります。

つまり仮想通貨はメソポタミアの時代から存在していたのです。

金属主義

少なくとも古代メソポタミア時代までは、お金の正体がデータであり、硬貨(当時は貝殻などで代用)はあくまでもお金の仮の姿であることは明らでした。

しかし硬貨が人々の生活のなかに浸透すると、いつしか「お金≒硬貨≒モノ」であるという誤解が蔓延しました。

アリストテレスも、アダム・スミスも、ジョン・ロックなど歴史の教科書に登場するような偉人までもが「お金≒モノ」と誤解してしまったのです。

例えばジョン・ロックは、国力=貨幣の量=金銀の量という非常にシンプルな金属主義者でした。

もっともジョン・ロックが極端な金属主義的な貨幣観を信奉するようになった理由はわからなくはありません。

中世欧州ではスペイン国王が、アメリカ大陸から送られてくる金銀によって国力を強化したことからもわかるように、お金の中心は確かに貴金属だったからです。

発行主体 = 国・領主

中世の時代においてお金の中心は貴金属でした。しかし国が保有する金銀だけでは、にっちもさっちもいかなくなる事態が発生するのでした。

軍事革命

中世の時代に、鉄製クロスボウ・マスケット銃・大砲などが開発されたことにより、軍隊の主力は「騎士」から「歩兵」に移りました。いわゆる軍事革命です。

軍隊の主力が「歩兵」に移ったことで、大軍を徴兵しなければ戦争遂行そのものが困難になりましたが、大軍を徴兵するためには膨大な貴金属を確保しなければいけません。

お金がなければ戦争はできないが、手元にお金がない。しかし戦争しないわけにはいかない。どうするか????

というわけで欧州諸国の国王は、銀行からの「借り入れ」によって戦費を調達せざるを得なかったのです。

もちろん国王とはいえ、無条件で銀行からの借り入れを利用できるわけではありません。国王は「公債」を発行することで銀行借り入れを利用したのです。

では「公債」の担保となるものはなんでしょうか?もちろん国王が発行する公債の価値を担保するのは「将来の税収」です。

そして「将来の税収」によってその価値を担保された公債は、お金として流通することになるのでした。

通貨発行益の追求

国王や領主が発行する「公債」といえば、大変な信用力がありそうですが落とし穴がありました。

中世の時代における領主はそれこそ雨後のタケノコのごとく存在しており、国王といっても領主の一人でしかありませんでした。

国王はクラスをまとめる学級委員長のような立場でしかなく、国王だからといって領主を自由に動かせるような権力はもっていなかったのです。

つまり権力者それぞれが私利私欲を追求するという状況に、歯止めをかけることのできる権力者は誰一人として存在しなかったのです。

そして国王や領主がそれぞれ好き勝手に硬貨を発行した結果、額面価格とその通貨に含まれる貴金属の含有量はバラバラになってしまいました。

つまり同じポンドやフランであっても、領地が異なるだけで「価値」(≒購買力)が異なるわけです。利用者としてはややこしいことこの上ありません。

シニョリッジ

通貨発行者である権力者が私利私欲を追求するとはどういうことを意味するのでしょうか?

例えば領主が市場価格9,000円の金(や銀)で、10,000円金貨を鋳造する場合には、領主は1,000円分(10,000円-9,000円分)の儲けになります。

この儲けを「シニョリッジ」と呼びます。ちなみに「シニョリッジ」の語源は、中世欧州の領主「シニョール」だといわれています。

公の両替銀行

中世におけるお金の概念は「金属主義」でした。だからこそお金そのものの額面よりも、お金に含まれている貴金属の量が購買力を決定する要素だったわけです。

しかしお金の発行主体である領主がそれぞれバラバラに通貨を発行したことによって、決済がとても煩雑になってしまいました。

暗躍する両替商

80年戦争(1568年から1648)によってスペインからの独立を勝ち取ったオランダは、世界経済の覇権を手にします。

アムステルダムには世界中の商人が集まりましたが、決済について大きな問題を抱えていました。

なんと・・・当時のオランダでは400種類以上もの貨幣が使用されていたというのです。もちろん個別の商人同士が、400もの通貨を扱えるわけがありません。

というわけでビジネスの現場では、手形による決済が主流になり、欧州各地の商人は、手形を両替商に持ち込み、自国の貨幣に両替するという流れが一般的になります。

しかしそのようなシステムが成立するためには、多種多様な金属貨幣を選別する両替商が「悪人でなかったら」という前提が必要になります。

残念ながら・・・・正直者の両替商ばかりではありませんでした。一部の両替商は、故意に換金率を低く落とすことにより、不正に利益を得ていたのです。

そうなれば当然、アムステルダムの商人の不満は高まります。そして決済の問題が解決されなければ疑心暗鬼が蔓延し経済活動そのものが停滞してしまいます。

もちろん経済が停滞するようではオランダ人も困ります。そこでオランダ人はある画期的な仕組みを考え付くのです。

アムステルダム銀行

オランダ人は民間の両替商に仕事を任せると各業者が自己利益の最大化を目指すため、公の両替銀行を発足させることにしました。

その結果、1609年にアムステルダム銀行が誕生します。アムステルダム銀行では、欧州中の通貨について、法定金属貨幣(単位:グルデン)に両替することが定められました。

アムステルダム銀行の登場は画期的でした。アムスダム銀行は単なる両替商以上の役割を果たすようになったからです。

具体的にはアムステルダム銀行は預金を引き受け、さらに振替による決済サービスをスタートさせたのでした。

すなわちアムステルダム銀行の仕組みを使うことで、商人たちは硬貨を使う手間から解放されたのです。

いちいち硬貨を使うことなく、手形およびアムステルダム銀行内の帳簿上のデータを動かす(振替)だけで売買の清算ができるのですから、商人にとってこれほど「安心・安全」なシステムはりません。

このアムステルダム銀行の仕組みは、あまりにも便利であったため、オランダで商売する商人たちは、誰もかれもがアムステル銀行に口座をもつことになり、アムステルダム銀行の振替決済は欧州中の商人に広がっていくのでした。

そして1680年にアムステルダム銀行は、特筆すべき決定を下します。アムステルダム銀行は振替による決済で移動したお金について、貨幣化を禁止したのです。

現代風にいえば銀行口座の預金が、紙幣・硬貨に両替できなくなったことを意味します。しかし(もしかしたらあなたの直観に反するかもしれませんが)問題は何も生じませんでしたし、商人が抗議活動に出ることもありませんでした。

なぜならば取引先の商人はみんなアムステルダム銀行の口座をもっており、なおかつ商売の支払いは振替で完了するため、預金が現金化できないことによる不都合は特になかったからです。

銀行の誕生

アムステルダム銀行の誕生により、お金の発行者が「国王」や「領主」から「民間」に移ったわけですが、海を隔てたイングランド王国でも金融イノベーションがはじまろうとしていました。

チャールズ一世の裏切り

お金がなければ不安になりますが、お金があったらあったで「盗まれるのではないか?」という新たな不安が生まれます。貧乏人には貧乏人なりの、お金持ちにはお金持ちなりの不安があるのです。

商売に成功した商人たちは、金貨をもっとも安全な場所に保管することにします。商人たちが選んだその場所とは、イングランド王国の要塞である「ロンドン塔」でした。

しかし1640年、財政難のなかで戦費調達に迫られたチャールズ一世が、ロンドン塔に保管されていた金貨の没収を目論むのでした。

当然、大商人たちはパニックになり、大きな批判にさらされたチャールズ一世の没収案は撤回されます。結果として大商人の金は守られたわけですが、それ以降、誰一人としてロンドン塔の安全性を信じるものはいなくなりました。

そこで次に大商人たちが注目したのは、「ゴールド・スミス」と呼ばれていた金細工商人たちでした。ゴールド・スミスたちは職業柄、大量の金を保管しなければならず、仕事場に堅固な金庫を所有していたのです。

ゴールド・スミスの商売

ゴールド・スミスたちは、大商人たちから金を預かり、預かり証(金匠手形)を発行するビジネスをスタートさせました。しかしビジネスは単なる預金ビジネスだけでは終わりません。

ある日一部のゴールド・スミスたちは、金貨を預けた商人たちが一斉に預かり証(金匠手形)を持ち込むことがあり得ないことに気づき、商人から預かった金を勝手に他人に貸し出して金利を稼ぐするビジネスをスタートさせるのでした。融資して金利を受け取るという、いわゆるサラ金業者のビジネスモデルです。

ちなみにここからが重要なポイントになるのですが、貸し出した金の一部は、ゴールド・スミスに戻ってくることに注目すべきです。

なぜならばゴールド・スミスから借りた金の使い道は「仕入れた商品の支払い」であり、支払いに使われた金は盗まれる心配があるため、結局はゴールド・スミスに預けられることになるからです。

さて、預金ビジネス(手数料)だけでなく、サラ金業者のビジネス(金利)にまで活躍の幅を広げていたゴールド・スミスですが、同時期にゴールド・スミスが発行した金匠手形が紙幣として流通しはじめます。

もちろん金匠手形をゴールド・スミスに持ち込み、ゴールド・スミスから金を返してもらい、そのお金で商売の支払いを済ますことは可能です。

しかしそのような手間をかけるのは単純に面倒ですから、金匠手形が流通したというわけです。アムステルダム銀行が預金の引き出しを禁止しても何も問題が起こらなかったように、ロンドンの商人たちもわざわざ手形を金貨に交換しようとは思わなかったのです。

この時点でゴールド・スミスが発行した金匠手形は、まさに「現金紙幣」そのもののお金になったわけですが、そこにゴールド・スミスは目をつけたのです。

信用創造の誕生

自分たちが発行している金匠手形がお金として流通している実態をみて、ゴールド・スミスの誰かがこんなことに気づきました。

今まで融資を希望する人に、金そのものをを貸し出していたが、金そのものではなく金匠手形を貸し出せばいいのではないか?」と。

というわけで、貸し出しの際にゴールド・スミスは借用証書と引き換えに、数字を書き込んだ金匠手形を発行するようになったのです。

融資するものが『金』である場合と、『金匠手形』である場合には大きな違いがあります。

『金』の場合には融資できる金額の上限は、(当然)「手持ちの金の総量」になります。その一方で『金匠手形』の場合には、融資できる金額の上限は「手持ちの金の総量」を超えるのです。(なにせ金匠手形に数字を書き込むだけですから!!)

ゴールド・スミスのやり方に驚く方もいるかもしれませんが、このやり方は現代の銀行のやり方そのものです。

銀行がわたしたちに融資する時、銀行がどこからが調達してきた「預金」を、わたしたちに貸し出すのではないのです。銀行の貸し出しにより「預金が創出される」のです。

ひらたくいってしまえば、銀行は借用証書と引き換えに「数字を書く」だけで、お金(預金)を創出しているのです。これこそが信用創造といわれるもののカラクリです。

中央銀行の誕生

「お金の価値は貴金属とは関係がない。そして借用証書と引き換えにゼロからお金を生み出せる(信用創造)」という世紀の発見を、イギリス政府が見逃すはずがありません。

ゴールド・スミスの誤算

ゴールド・スミスが発明した、元手ゼロで金利を稼ぐ信用創造のビジネスですが、最終的には失敗しました。

金匠手形があまりにも市場に流通した結果、商人たちの間で「本当に市場に出回っている分だけの金を、ゴールド・スミスは保管しているのだろうか?」という疑念が蔓延したからです。

結果、取り付け騒ぎの末にゴールド・スミスのビジネスは崩壊するのでした。ゴールド・スミスの手元にある「金」以上の、金匠手形を市場に流通させたツケが最後に回ってきたのです。

しかし・・・・ゴールド・スミスというもともとは金細工商人だった人たちではなく、ゴールド・スミスよりも信用力の高い「政府」が同じことをしたらどうなるでしょうか?

当時のイギリスは1689年からはじまり1815年のワーテルローの戦いでナポレオンが最終的に没落するまで百年以上も継続した「第二次英仏百年戦争」の真っただ中でしたので、戦争に勝つためにどうしても戦費を調達する必要がありました。

そこでゴールド・スミスがやっていたことを、そっくりそのまま政府が真似をするというアイディアが現実のものになったのです。

1694年、スコットランド人ウィリアム・パターソンと、財務長官モンタギューにより、イギリス政府の銀行としてイングランド銀行が誕生しました。この瞬間に、現代でいうところの中央銀行が誕生したのです。

莫大な借金

イギリス政府は、イングランド銀行に公債を発行するかわりに、イングランド銀行から「イングランド銀行券」を受け取りました。

もちろんイングランド政府は、イングランド銀行券を戦費にあてました。(つまり民間への支払いにイングランド銀行券を利用したということ。)

戦費調達に成功したイギリスは最終的に戦争に勝利します。しかしイギリス政府はGNP比288%まで借金を膨らませました。

とはいえイギリス政府が、ゴールド・スミスのように破産することはありませんでした。なぜイギリス政府は破綻しなかったのでしょうか?

ゴールド・スミスの場合は、商人からの取り付け騒ぎによりそのビジネスは終焉しました。

その一方でイギリス政府の場合はイングランド銀行から「公債の償還をしろ(借金を返済しろ!)」とは迫られなかったのです。

イングランド銀行はイギリス政府の子会社のようなものですから、冷静になって考えてみれば当然といえば当然です。(中央銀行が政府を破綻に追い込むわけがない)

ちなみにその後フランスとの戦争に勝利したイギリス政府は、経済成長を遂げることでGNPを拡大させ、公債対GNP比率を引き下げていきました。

最後に

古代メソポタミア文明からイングランド銀行の誕生までのお金の歴史を振り返りました。

お金の発行主体が「国王・領主」から公に移った「第一の金融イノベーション」。

そして元手ゼロからお金を創造する信用創造という「第二の金融イノベーション」。

さらに政府が中央銀行の誕生させてお金を発行させるという「第三の金融イノベーション」について解説しましたが、いかがだったでしょうか?

特に「元手ゼロからお金を発行できる」という信用創造の仕組みは、直観的に理解しずらいカラクリだったと思いますが、事実である以上、「そういうもの」と認めるほかありません。

そして奇妙としかいいようのない金融のカラクリの上に、現代政府の財政政策や金融政策は実施されていることは見過ごせない事実でもあります。

つまり今回解説した金融イノベーションに関する知識を100%理解した人だけが、経済のカラクリを理解するスタートラインに立つことができるわけです。

ですからもしあなたが本記事を1回読んで理解できなかったとしても、諦めずに繰り返し読んでほしいと思います。