リップヴァンウィンクルの花嫁 ~ 引きこもり体質から脱皮する体験

リップヴァンウィンクルの花嫁

わたしは「お客様は神様」だと信じて疑わず、無礼なふるまいをする輩は「クズ野郎」だと思っています。

仕事であきらかに先方に落ち度があるのに、「わたしはお金を払ったんだぞ!!」とばかりの態度をする人をこれまでたくさん出会ってきたし目撃してきました。

なぜ?クズなのか?

それは「なんでも金で買える」と誤解しているからであり、「お金をもっている奴が偉い」と誤解しているからです。

しかしクズ野郎は誤解していることに気づきません。なぜ?気づかないのかというと「社会に『過剰』に適応しているから。」です。

社会に過剰適応するクズ

社会では「所有権」が「法」によって守られており、「所有」があるからこそ「交換」という概念が成立します。

例えばサラリーマンにとっての「忠誠心」や「労働」は、あくまでも「お金のため」の交換の道具のはずでした。つまり忠誠心はあくまでも「建前」であり「本音」ではなかったのです。(少なくとも昭和の時代までは。)

しかし平成になり令和になると、これまで「建前」でしかなかったものが「本音」になってしまいました。これが「過剰」の意味するところです。

それまでマイナーな存在だった「社会に過剰適応する輩」が多数派を占めるようになると、世のなかでは一見すると理不尽なことが正当化されるようになります。

ひらたくいえば、クズ野郎がスタンダードな社会では、クズになりきらないと社会のなかで恵まれたポジションを確保できなくなるのです。

例えば銀行の担当者が高齢の預金者に預金引き出させてハイリスク&ローリターンの投資に挑戦させた結果、大切な老後資金のかなりの金額を失ってしまう・・・・という事例は、わたしの目と耳で直接確認できる範囲でもチラホラ確認できます。

銀行の担当者はこう弁解するでしょう。「仕事ですから。」と、「法的には問題ありません。」と。

あなたが損をした側であれば「ふざけるな!」と思うでしょうが、そうやって成績を上げた人が銀行のなかでは出世するのです。

理不尽だと思いませんか?あくまで一例ですが、これが理不尽なことが正当化される事例の一つです。

クズになれない場合の選択肢

あなたは社会に過剰適応する「クズ野郎」を演じることができるでしょうか?

もしあなたが「クズ野郎」になりきれない場合、一般的な選択肢は2つです。

選択肢#1)演技をする

選択肢その1、「クズ野郎の演技をする」。

しかし演技とはいえ、クズ野郎であることを自覚しながらもクズ的なふるまいを続けることは精神的にもかなりのストレスになります。

選択肢#2)ひきこもる

選択肢その2、「ひきこもる」。

「ひきこもる」のは手軽です。しかし「ひきこもる」場合、他人から羨ましがられるポジションは確保できないでしょう。

いかがですか?あなたはどちらの選択肢を採用しますか?

わたしの場合、サラリーマンとしてクズ野郎を演じた過去がありますし、クズ野郎になりきれないことを悲観してひきこもった時期もありました。

結果、引きもり続けていても「何も生み出さない」ことを悟り、第三の選択肢を見つけたわけですが、、、、、、

さて、、、、、以上の話ですが、、、、「ちょっとよく理解できません。」と思った人が大半だと思います。そうなんです。言葉で説明するのは難しいのです。

そこで「クズ野郎の演技をする」タイプの人間と、「引きこもる」タイプの人間を感覚的に理解できる映画を紹介したいと思います。

リップヴァンウィンクルの花嫁

「リップヴァンウィンクルの花嫁」には、綾野剛さん演じる「クズ野郎の演技をする」エージェントと、黒木華さん演じる「社会になかなか適応できないひきこもりタイプ」が登場します。

そして「演技」と「ひきこもり」を超えた存在として、歌手のCoccoさん演じる「女優」も登場します。

いずれの登場人物には一見すると共通点なんてものはありません。

しかしこの映画の凄いところは、今ご紹介した3人の登場人物が「理不尽な社会に苦しんでいる」同じ穴の狢(むじな)であることが、作品の終盤になって暴露されるという点にあります。

主人公である七海(黒木華)は、安室(綾野剛)、真白(Cocco)と出会ったことで、どのような態度で生きることを決断するのでしょうか?そしてあなたは七海の決断を受け入れることができるでしょうか?