『政治倫理』は成立不可能

政治倫理

「政治倫理」という言葉の意味について、コトバンクでは以下のように説明しています。

国民全体の代表者として公平・公正に行動するために政治家が持たなければならない行動規範。

【引用:コトバンク】

つまり政治倫理を理解するためには、「公平」、「公正」、「倫理」という言葉の意味を理解する必要があるのです。

しかし実は・・・・・「公正」と「倫理」という言葉は真正面から対立する概念なのです。ですので「政治」(公正)+倫理というものはそもそも成立不可能なのです。

本記事ではそのことをわかりやすく説明します。

倫理と公正は水と油

倫理は善を求めます。善とは英語にするとGOOD(グッド)であり、善の追求こそが倫理の実践に他なりません。

その一方で公正とは英語にするとFAIR(フェア)であり、FAIR(フェア)というものは民主主義が正常に機能する上での前提条件にもなっています。

では公正とはどのような意味でしょうか?

公正とは、公平という意味でもなければ、公の正義という意味でもありません。

ズバリ公正の意味するところは、「かたよりがなく正当なこと。」です。

「かたよりがなく」というぐらいですから、もちろん倫理が要求する善(GOOD)ではありませんが、悪(BAD)でもありません。

日本語でいうところの「普通」より「ややよい」ぐらいが公正の意味するところです。A~Fの6段階評価でいうところのCぐらいが公正の立ち位置なのです。

そのことを理解すると、実は民主主義においては、A~Fの6段階評価のうちA(Excellent)やB(Good)を目指すことを政治に期待してはいけないということがわかってきます。

なぜ?民主主義において政治にAやBを期待してはいけないのでしょうか?

その答えはカンタンです。AやBを目指すと民主主義が崩壊してしまうからです。

民主主義のカラクリ

民主主義の古典的な思想は、いろんな意見をもった政治家が選挙でぶつかり合うことによって最大多数の最大幸福を目指すというものです。

この考え方はアダム・スミスの思想にそっくりです。アダム・スミスの主張は、 経済活動を個々人の私利をめざす行為に任せておけば「神の見えざる手」により社会全体の利益が達成されるというものでした。

経済における「市場」を「選挙」に置き換えたものが民主主義だとイメージすればわかりやすいと思います。

経済において個々人が私利私欲のためだけに活動することが許されるように、政治においても各個人が私利私欲を追求することが許されるのです。

繰り返しになりますが、各個人が私利私欲を追求しているにもかかわらず、結果として最大多数の最大幸福が達成されるというのが資本主義と民主主義の基本的な発想なのです。

もちろんアダム・スミス的な発想(神の見えざる手)では、短期間で最高の結果を出すことは難しいでしょう。なぜならば民主主義の仕組みの上では、「少数意見」(たとえそれが多数の足を引っ張るものであっても)を完全に排除するなんてことはできないからです。

以上のような理屈で、(民主主義を尊重するのであれば)A~Fの6段階評価のうちCを目指すのが現実的な政治の目標となるのです。

最後に

民主主義を愛するなら「政治倫理」というものはそもそもありえず、政治に過度な期待を(AやB)してはいけないということは是非とも覚えておきましょう。

もしA(Excellent)やB(Good)を目指そうとすれば、、、、、、、少数意見をもつ人たちを粉砕して「こうしろ」と命令する必要がありますし、「こうしろ」という命令に違反したものに、強制してもやらせるように、組織的な統制が必要となります。

そうなれば統制を強制するための組織として官僚組織が必要となり、さらに官僚組織を維持するためのボス(独裁者)の誕生は必然となるでしょう。