『ザ・ビーチ』 ~ 退屈な現実が『楽園』になる体験

ザ・ビーチ 感想

レオナルド・ディカプリオ主演の『ザ・ビーチ』(公開:2000年)を鑑賞しました。とても興味深い映画だったので紹介・解説したいと思います。

ザ・ビーチ(予告)

警告

これ以降の内容は、ネタバレも含みますのでご注意ください。

楽園は実在するのか?

「ここではないどこか」を求めた経験はあなたにもあるでしょう?

わたしも受験勉強・就職活動・出世競争に突入するたびに、「ここさえ無事にやりすごせば幸せになれる」という意識をもっていました。

しかし社会人になり数年が経過し、自分の先がなんとかなく見えてしまった瞬間に、行き詰まりを感じて絶望するのでした。

競争にもっと早く負けていれば、もっと早くそのことに気付けたかもしれないし、わたしがもっと勘のいい人間だったらそのことにもっと早く気づくことができていたでしょう。(残念!!)

とはいえいまさら後悔しても遅いのです。自分の過去を否定するなら、今この瞬間からやり直すしかないのです。でもどうやって????

『ザ・ビーチ』が公開される前の1990年代は、人生に対する不透明感を多くの人が感じていた時代でした。

映画『ALWAYS 三丁目の夕日』で描かれているような「未来は明るい」という1960年代にはあったはずの前提を共有できなくなってしまったのです。

「未来は明るい」という前提が消えた現代日本には、「今、幸せならそれでいいじゃん」、「別に無理して頑張る必要ないじゃん」というような、、、いわば『まったり』した生き方を実践している人もたくさんいます。

しかし誰もが『まったり』できるわけではないのです。マグロのように常にカラダを動かしていないと窒息しそうになるタイプの人間もいるのです。

主人公のリチャード(演:レオナルド・ディカプリオ)はまさにそういうタイプの人間です。退屈な生活のなかにも「幸せの種」が隠れているさ・・・・というように発想できるタイプの人間ではないのです。

だからこそリチャードは常に刺激を求めています。タイの現地人に挑発されて『蛇の血』を飲んだのもそのためです。

楽園の案内人

刺激を追い求めるリチャードに願ってもいない情報(ビーチの地図)を提供したのは、同じ宿に宿泊していたダフィでした。ダフィいわく、「(楽園にあるビーチは)パーフェクト」なんだそうです。

わたしはダフィの発言を聞いて、ある宗教を思い出しました。その宗教は信者に「最高ですか?」と問いかけます。すると信者は一斉に「最高です!」と叫ぶのです。

何が言いたいのかというと・・・・『楽園』というものを説明するときに、くどくどと「何がすごいのか?」を説明するのはナンセンスだということです。

「天国」、「楽園」、「ビーチ」の何がすごいのか?ということを詳しく説明する必要ないのです。「パーフェクト」とか「最高」というあいまいな言葉でお茶を濁し、具体的なイメージは各人に任せるのが、他人を誘惑する時のコツなのかもしれません。

さて、少し脱線しましたので本題に戻りましょう。

物語の序盤において、ほとんどの観客はあるかわからない楽園を探す旅へと出かけるのだな・・・と想像したことでしょう。確かにその予想は的中します。しかし多くの人が予想していたよりもあまりにも早く、理想のビーチへとたどり着いてしまうのです。

リチャードは楽園にたどりつきます。しかし「めでたしめでたし」で終わらないのです。おそらくあなたが予想する「楽園」のイメージとはかけ離れた現実が「楽園」にはあるのでした。

楽園の現実

楽園で待っていたのは文明とはかけ離れた自給自足の生活でした。わたしなんかは、ウォシュレットがない生活なんてもう想像したくもありません。

しかし楽園で暮らすバックパッカーたちは不便さを受け入れます。楽園で暮らす全員が、虫歯になればペンチで歯を抜いて治療するというめちゃくちゃな光景を目の当たりにしても、楽園のある島から離れようとしないのです。

なぜ?楽園から離れようとしないのでしょうか?

ズバリ「強度」があるからでしょう。天候が荒れれば漁ができずに飢えに悩まされるというような、現実的な不便さが「彼らに生きている実感」を与えているのです。

しかし楽園に存在する「強度」は、コントロールできるものではありません。そこにあるのはまさに弱肉強食の世界です。

仲間がサメに食われるシーンが象徴的ですが、弱肉強食の世界は共同体の内部にも存在します。仲間から彼女を奪い取って自分の彼女にしてしまうリチャードは、その時点では強者でした。

しかし強者であるはずのリチャードは、共同体の長であり最大権力者の命令に逆らうことができず、サルに食われてしまうのです。さらに絶対的権力者であるサルですら、別の共同体の暴力に負けてしまい、共同体を崩壊させてしまうのです。

とはいえ、サルが自らの共同体を崩壊させたのは、敵の暴力に屈したというよりは、自業自得の面もあることは否めません。

残念ながらサルは共同体のルールを理解していませんでした。法律に縛られない共同体のルールは2つしかないのですが、サルはそのルールを破ったのです。

ちなみに1つ目のルールは「仲間を殺すな」。2つ目のルールは「仲間のために人を殺せ」です。

もしサルが理想の共同体を存続させたいと願うなら、サルはリチャードに引き金を引くのではなく、サルは理想を壊そうとする敵を攻撃すべきだったのです。

仲間の前で仲間(リチャード)を排除しようとするサルの選択は、共同体の長としては最悪の決断であり、おそらくサルに選択肢(楽園を守るか?、リチャードを排除するか?)を与えた村長はそのことを計算していたと思います。

つまり村長は以下2つのシナリオを想定していたのだと思います↓↓↓↓

もしサルがリチャードを排除しなければ、「約束(外から入ってくる人数を制限しろ)を守る気がないなら、島から出ていけ!」とイチャモンをつけて、サルたちを島から追い出すことができます。(1つ目のシナリオ)

逆にサルがリチャードを排除すれば、共同体を守るルール(仲間を殺すな)を破ったことによって、サルの共同体は自然消滅すると予想していたのでしょうし、実際にそうなりました。(2つ目のシナリオ)

リチャードの将来

幸せになるために楽園を探し、ようやくたどり着いた楽園から追放され、ついには戻る楽園すらなくなってしまったリチャードは、果たして幸せになれるのでしょうか?

作品のラストシーンでは、リチャードの周りにいる人間たちは明らかに浮かない顔をしているのに、リチャードの表情だけはイキイキとしています。

なぜ?リチャードだけが幸せそうなのでしょうか?リチャードはラストシーンで以下のようなセリフを残しています。

今も楽園を信じてる。でも探し求める場所じゃない。実際に行くより、大切な瞬間に心で感じる場所だから。その瞬間を見つけたら、それは永遠に残る。

わたしはこのセリフを聞いて、ある女性のことを思い出しました。その女性は夫婦喧嘩をして離婚の二文字が頭をよぎるたびに、結婚式の写真や婚約指輪を眺めて幸せな気持ちを取り戻し、退屈な今をやり過ごすのだそうです。

その女性にとっての「その瞬間」は結婚式やプロポーズの時の光景でしたが、リチャードにとっての「その瞬間」は、「いつか最高の写真を撮る」と宣言していた元カノ・フランソワーズから届いた写真に映し出されていた一コマだったのでしょう。

写真には「パラレルワールド」というメッセージが書かれていました。リチャードがフランソワーズを口説くシーンで登場したキーワードです。

作中のリチャード自身のセリフを思い出せば、フランソワーズから送られてきた写真に映し出された一コマは、もしかしたら今もまだあり得たかもしれない光景である可能性を暗示しているのだと解釈するのが自然でしょう。

リチャードが他人に楽園の地図を渡さなければ、リチャードがサルと浮気しなければ、リチャードが地図の奪還に成功していれば、、、、、、たくさんの「もし」があれば、写真の光景はいまもまだ現実だった可能性があるということです。

もしそのように解釈しなければ、フランソワーズから送られてきた写真を観ながらニヤニヤするというリチャードの心境は理解できないでしょう。だってそうですよね?リチャードにとって楽園での生活はいい思い出ばかりではないのです。

「パラレルワールド」を信じる感性がなければ写真のど真ん中には自分を共同体から排除しようとした憎き女(サル)が満面の笑みで映っている写真なんて発見次第、すぐに削除するのではないでしょうか?

永遠に残る瞬間

永遠に残る瞬間・・・・というものがあなたにはあるでしょうか?そもそも永遠に残る瞬間というものは存在するのでしょうか?

旅から戻ってきたリチャードには旅の余韻があります。だからこそ、フランソワーズから送られてきた写真に没頭することができたのでしょう。しかしその効果はどれほど長続きするのでしょうか?1年?5年?それとも10年でしょうか???

旅の記憶がリチャードのなかで薄れた時、リチャードは再び旅に出るのでしょうか?それとも楽園を探すなんてリスクを冒さずに「まったり」生きるでしょうか?あなたはどう思いますか?