プリズン・エクスペリメント ~ 『自分』という存在に絶望する体験

プリズン・エクスペリメント

わたしが高校生の時、クラスメイトの女の子が「本当の自分がわからからない」ということをつぶやいたことを今でも覚えています。

家族と一緒にいる自分、友人と一緒にいる自分、彼氏と一緒にいる自分のそれぞれが同一人物であるようでいて、別人格であるように感じられたのだそうです。

当時のわたしは「難しそうなことを考えるメンドクサイやつだな。」としか思いませんでしたが、今思えばその子はわたしよりも感受性があり、ずいぶん先にいっていたのです。

わたしは「自分は誰なのか問題」から目を背けて生活していましたが、高校・大学を卒業し、社会人になりしばらくしてはじめて、「自分は誰なのか問題」とあらためて向き合うことになります。

自分という人間を他人に理解してほしくても、「●●会社に勤めている、●●という役職で、●●という趣味をもった、●●の両親のもとに生まれた・・」という具合に、自分を表現する手段を「自分ではない別の何か」でしか表現できない現実に気づいてしまったのです。

自分を説明したいのに「自分ではない別の何か」でしか、自分という存在を表現できないというもどかしさに、どのようにして向き合えばいいのでしょうか?

今回は、そのようなことを考える上でうってつけの作品を紹介したいと思います。

プリズン・エクスペリメント(予告)

スタンドード監獄実験

スタンドード監獄実験と呼ばれる有名な心理実験があります。普通の人々を集めて、ランダムで囚人役と看守役を決定し、本当の刑務所のような境遇で暮らしてもらうという実験です。

すると不思議なことに、囚人は囚人らしく、看守は看守らしく、その立場に応じた振る舞いや顔つきをするようになったのです。映画『プリズン・エクスペリメント』ではこの実験の詳細な状況が描かれています。

さて、この心理実験からわかることは「周囲の環境や役割や立場によって無意識にその考えや行動が決定づけられている」ということです。

そしてそのような考え方は実生活にも応用されています。学生は学生らしくふるまうために、警察は警察らしくふるまうために、制服を着用しているではありませんか。

つまりわたしたしは、自分で思うほど自由に物事を考えているわけではなく、周囲の環境や社会的規則(構造、システム)によって、実は「無意識にそのように考えさせられている」のです。

以上のような考え方を哲学では「構造主義」といいますが、あなたは構造主義を受け入れることができるでしょうか?

構造主義を受け入れるのであれば、あなたが「正しい」と自分の頭で考えているつもりのことは、実は構造(システム)に生成された結果であるということになります。

例えば「不倫は絶対ダメなこと」と現代日本人は考えています。芸能人の誰々が不倫したということが大々的に報道されていることからも明らかです。

しかし日本でも一昔前までは妾を囲うことは「ステータス」だったし、フランスでは今でも文字通り「不倫は文化」です。フランスの元大統領ミッテランは、記者に不倫していることを質問されて動揺することもなく「それがどうしたの?」と逆質問したほどです。

構造主義的に考えるのであれば、「自分は不倫はダメ」と思っていることの中身も実は「みんな不倫はダメだと思っているから自分もそれに従う。」というだけのことだったりするわけです。

街頭インタビューで日本人にいろんなことを質問すると、こんな答えが返ってくることが多いです。「今はそういう時代だから」と。まさに自らをシステムのなかの駒であることを自覚している発言ではありませんか・・・・。

どうでしょう?『愛』、『お金』、『絆』などの一見すると「あればあるほどいい」というようにポジティブに考えてよさそうなものですら、人によっては「それは自分を縛る鎖である。」とネガティブに考える人もいるのです。

そしてそれらがポジティブかネガティブかどうでもいいものか決めるのは、「あなた」ではなく首位の環境や社会的規則といった「あなたではない何か」なのです。

あなたは構造主義の枠から抜け出すことができるでしょうか?

「枠」から抜け出す

ポスト構造主義(構造主義以降の哲学)では、悲観的な観測が広がっています。構造主義を乗り越えようとして、構造主義を批判しようとしても、結局は誰一人として構造主義から抜け出せないのです。

自分の意志で選んだことが、実は自分の意志とは全く関係のない構造(システム)によって決められていたことであった。。。。。。。という残酷な現実と真正面から向き合う方法については会員制ブログ『輝のノート』で公開しています。登録は無料ですので興味がある方は是非とも登録してください!!