もしあなたの(もしくはあなたの子供が)通っている学校に、遺伝子疾患が原因で人と異なる顔で生まれてきた結果、27回も整形手術をした子どもが転校してきたら・・・・あなたはその人と仲良くできますか?
今回は(まさにそのような状況で)5年生にしてはじめて学校への通学に挑戦する子どもと、その周囲の人間たちを描いた映画を紹介します。
ワンダー君は太陽(予告編)
イジメからの脱却
予告編を観ていただいたらわかる通り、遺伝子疾患により人と異なる顔で生まれてきたオギーが学校でイジメられるも、そこから脱却するという話です。
オギーはどのようにして・・・いじめられっ子から脱却することができたのでしょうか?
日本的な価値観では「みんな!オギー君と仲良くしなさい!!」と先生や周囲の大人は命令したり強制することを想像するかもしれません。
しかし残念ながら(?)「みんな仲良くしなさい!」というような命令は、作品のなかでは一切描かれていません。
5年生にしてはじめて自分の子供を学校に通わせるというのに、親は学校の中の世界に一歩も足を踏み入れないし、教師も「みんな仲良くしなさい!」と命令しないのです。
日本の学校教育とは異なる学校教育の姿が作品の中で描かれているわけですが、そのような状況を理解するために補助線を1本引きたいと思います。
政治と経済
古典的な経済学においては、経済が「主」であり政治は「従」であると考えます。
ひらたくいえば、政治は経済活動を機能させる前提を提供することがその役割であり、人々の幸福は経済で追求するという思想です。
つまり政治が目指すのは「そこそこの幸せ」であり、善きこと(GOOD)は商品(GOODS)の提供によって実現するのだという発想をするのです。
では経済活動の中で、どのような商品が提供されればみんなが幸せになれるのでしょうか?
その疑問への回答として有名な言葉として、アダム・スミスの「神の見えざる手」があります。
「どのような商品が提供されたら全員が幸せになるか?」というようなことは、各個人が考える必要はないのです。各個人が私利私欲を追求すれば、「神の見えざる手」という市場の働きによって最大多数の最大幸福が実現されるとアダム・スミスは説いたのです。
つまり「●●すれば」善きことが実現できるというような発想はせず、「●●はするな。但し、それ以外ならなんでもやっていい」というような発想をするのが古典派経済学派の特徴です。
命令 or 禁止
政治と経済の関係を、「学校」(政治)と「人間関係」(経済)に置き換えると作品の世界観がよく理解できるはずです。
「みんな仲良くしなさい!」と生徒に命令するのは日本式の教育スタイルです。しかし実は・・・・先進国でそんなことを命令しているのは日本だけなのです。
作品の中で描かれている教育スタイルは、「ああしろこうしろ」と命令することではなく「イジメをしたら停学」というような禁止規定を徹底に守らせることなのです。
命令スタイル(日本式)がもたらす結果と、禁止スタイルがもたらす結果の違いは大きいです。
禁止スタイルには自由があります。なぜならば「イジメをしたら停学。あとは何もしてもいい」ので、誰と仲良くしてもいいし、逆に誰と仲良くしなくてもOKだからです。
その一方で命令スタイル(日本式)には自由がありません。「みんな仲良くしろ」という命令に背いた時の状況を考えればよくわかります。
もし仲良くしなかった場合はどうなるでしょうか?もちろん命令にそむいた時の明確な罰則規定があるわけではないので、繰り返し「仲良くしろ!」と命令されるだけです。
勘のいい方であれば、イジメがあったのは間違いないのに「イジメはなかった」と主張し続ける学校や教育委員会が後を絶たない理由がわかるのではないでしょうか?
そう。日本の学校というものは「みんな仲良くする」という命令を強制する機関であるがゆえに、イジメがあったことを認めるわけにはいかないのです。なぜならばイジメの存在を認めることはすなわち「学校や教育委員会の存在の否定」に結びついてしまうからです。
最後に
「ワンダー 君は太陽」は、平成30年4月の文部科学省特別選定に選ばれています。
遺伝子疾患で人とは異なる顔を持つ主人公オギーを中心に、家族や友人達とのワンダーな心の旅を描く。小さな一歩が世界を変えることを教えてくれる感動の物語。
「小さな一歩が世界を変える」といってもくれぐれも注意が必要です。、学校教育における人間関係の健全な発展を支える『前提』の存在を忘れてはいけないからです。
仲間に暴力をふるったら停学、クラスメイトをイジメたら停学、というような禁止規定があるのかないのかわからないような状況において、子どもが「小さな一歩を踏み出そう」と思えるかどうかが問われているのです。
日本の子どもが「ワンダー 君は太陽」を視聴した結果、「イジメられているのだとしたらそれはあなたの責任」という逆向きのメッセージを受け取ってしまい、自分で自分を追いつめることのないように祈りたいと思います。
むしろこの映画を観るべきは、子どもではなく大人なのではないでしょうか?