ゆれる ~ 自分の人間性にはじめて気づく体験

ゆれる

哲学者のソクラテスは「善く生きる」ことを推奨しましたが、それからというもの哲学者の「正義」をめぐる議論は2,500年が経過した今でも続いていますし、わたしたち一般人にも無縁な問題ではありません。

今回紹介する映画では、「殺人者として法廷で裁かれる兄」に対して弟が「善く生きる」ための決断を下すという物語です。

ゆれる(予告編)

あらすじ

東京で写真家として活躍している早川猛(演:オダギリジョー)は母の葬式のために実家に帰省する。そこに待っていたのは、頑固な親父(演:伊武 雅刀)と優しい兄(演:香川 照之)と、かつての恋人である智恵子(演:真木 よう子)だった。

かつての恋人と再会した猛だったが、かつての恋人智恵子は翌日には亡くなってしまう。原因は、吊り橋からの転落。そして智恵子と一緒に吊り橋にいた兄の稔には「智恵子を吊り橋から突き落とした殺人の容疑」がかけられてしまうのだった。

兄は智恵子を吊り橋から突き落としたのか?殺意はあったのか?ということが裁判の争点になるが、実は・・・・弟の猛は現場の一部始終を目撃していたのだった。果たして猛は裁判でどのような証言をするのだろうか?

正義とは?

監督の西川美和さんの作品、「蛇イチゴ」では嘘つきの兄(演:宮迫博之)と正義感あふれる妹(演:つみきみほ)の関係性が描かれましたが、今回の作品でも性格が対照的な兄弟の関係性が描かれています。

「ゆれる」と「蛇イチゴ」はまったく異なる映画のように見えるけれど、共通するテーマがあります。それは「嘘」とか「正義」というものです。

「蛇イチゴ」では、嘘つきの兄が「物証」を提示することによって自分の正しさを見事に証明するわけですが、すべての正しさが「物証」で証明できるわけではありません。そこに真実を追求する難しさがあるわけです。

日本の刑事裁判においては「自白」、「物証」などが検察側からの証拠として提示されるわけですが、それでもダメなら「証言」も裁判において重要な判断材料になります。

一般的に「わたしは見たのです。」という類の証言には、信ぴょう性があるとされています。しかし本当に証言なんてものに信ぴょう性などあるのでしょうか?

人間の記憶というものはどうしても曖昧になりがちです。なぜならば人間の脳は、何かを思い出すたびに、視覚情報や、嗅覚情報といった五感の異なる情報を合成しているからです。

ですから仮に事件を目撃した人が「現場を見た」と主張し「現場の詳細な情報」を供述したとしても、警察から「もう一度、よ~く、思い出してください。」などといわれてアレコレ話しているうちに、証言が少しずつ変わっていく・・・なんてことは珍しくもなんちもないのです。

しかしここからが重要なポイントなのですが、「本人にはその自覚がない」のです。本人が「見た」と100%断言できるものが、真実とは限らないのですが、本人には真実としか思えない・・・ということはあり得るのです。

心理学者ユングは、「神秘体験の存在は神秘現象の存在を意味しない」といいました。わかりやすくいうと、仮に「わたしは幽霊をみた」という人がいたとしても「幽霊が存在する」ことにはならないということです。

以上の前提知識があれば、映画「ゆれる」で監督の西川美和さんが表現したかったことが理解できるのではないでしょうか?(続きは・・・会員制ブログ『輝のノート』で公開しています。登録は無料ですので興味がある方は是非とも登録してください!!)