「嫌われる勇気」が劇薬である理由

そう。もしかするとあなたは、サングラス越しに世界を見ているのかもしれない。そこから見える世界が暗くなるのは当然です。だったら、暗い世界を嘆くのではなく、ただサングラスを外してしまえばいい。

嫌われる勇気

「ただサングラスを外してしまえばいい」というアドバイスは単純です。しかし単純なアドバイスだからこそ、素直に受け入れることが一筋縄ではいかないのです。

事実、嫌われる勇気を読んで元気になれると期待していたら、逆にツラい気持ちなった・・・・・というレビューがたくさん見つかります。

うつ病を患い現在復職中の身です。上司に勧められて読み始めました…が。この本は心が弱っている人には劇薬にも等しい本でした。何を思って勧めてくれたのかはわからないのですが、これを読んで、タイトルのような勇気なんてとても持てません。むしろ、毎日がつらくなりました。

周りの健常者はこんなふうに思ってたのか?私が全て悪いのか?だとしたら、私の存在はなんなのか?自分の存在を全否定された気分になりました。

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そこで今回は、「嫌われる勇気」を読むと苦しくなるカラクリをひも解いていきたいと思います。

社会学と精神医学

社会学と精神医学はもともと仲がよくありません。なぜならば「悩みを解決してください!」というクライアントの要求に応じることは、悩みをもたらす社会問題に目をつぶり、心理問題にすり替えることを意味しがちだと(社会学者が)考えるからです。

もちろん生活を送れないほどの「悩み」の重みは当然緩和されてしかるべきですが、社会問題を放置したままそこで暮らす人間たちを社会のほうに適応させることは、むしろ社会問題の拡大をもたらすリスクがあると(社会学者は)考えるのです。

「貧困の現場」で活動している人は同様の問題意識をもっています。例えば北九州市で長年ホームレス支援をしている認定NPO法人抱樸(ほうぼく)代表の奥田知志氏は、こんな問題意識を語ります。

ホームレスを支援することで、ホームレスの人たちを社会に送り戻すのはいいが、今の社会を放置してホームレスを戻せばそれで問題は解決するのだろうか?」と。

なぜわたしがこのようなことを話すのかといえば、「人間関係の悩み」を生んでいるのは「自意識」であると同時に「社会」でもあるからです。どういうことでしょうか?

2つのレンズ

わたしたちは世界を2つのレンズを通してみています。1つ目は『自意識』というレンズ。2つ目は『社会』というレンズです。「嫌われる勇気」や「幸せになる勇気」を読むことは『自意識』というレンズを矯正することを意味します。

『自意識』のレンズを矯正すれば、人によっては救われる気持ちになることがあるでしょう。しかし『自意識』のレンズを矯正しようが、どこか騙されたような気持ちになるのは『社会』というレンズをそのまま放置していることに原因があるからです。

わたしたちは日本で生きる以上、誰もが『日本社会』というレンズをかけて現実を認識しています。もっと踏み込んでいうなら「ポストモダン」という歴史的なレンズもあります。だからこそ、日本では「欧米か?」(タカアンドトシ)とか「Why japanese people?」(厚切りジェイソン)といったギャグが通用するわけです。

わたしたちは現実をありのままにみたいと願っています。しかしそれは誰にとっても不可能です。わたしたちは完全情報をもった存在(神)や、目の前の情報に重要度をつけない存在(釈迦)にはなれないからです。

わたしたちができることは、神(完全情報をもった存在)や釈迦(現実をありのままにみる存在)に近づくべく走り続けることだけです。しかし「社会」のレンズといったものを意識すること自体がそう簡単なことではないのです。例えば・・・・

民主主義・資本主義

民主主義や資本主義といった現代日本人であれば空気のように当たり前にそこにあると信じていることは実は当たり前でもなんでもないのです。ある社会学者は民主主義を「優曇華の華」(うどんげのはな:3000年に1度しか咲かない花)と表現しました。

そう。わたしたちが「当たり前」だと信じていることの多くが当たり前ではないのです。例えば恋愛結婚して永遠の愛が続くなんてことはあくまでもロマンです。ロマンとは「不可能なこと」という意味です。

そう。民主主義も資本主義も永遠の愛も「優曇華の華」なのであり「ロマン」なのであり、それらを維持するためには不断の努力が必要なのです。

しかし現代日本人は、そのことを意識せずに日常生活を送っています。だから「人間関係はツライ」という感想がでてくるのだと思います。

しかしわたしたち現代人は、そもそも不可能なことに挑戦しているのです。だからツラいのは当たり前で、コストを支払うのも当たり前で、思考錯誤するのも当たり前なのです。

そう。わたしたちが現代社会をマトモに生きるということはそれ自体が、エベレストへの登頂に挑戦する以上に難しいことなのです。

2つのレンズを矯正せよ

『社会』のレンズを矯正すれば、おのずと「わたしは不可能なことに挑戦している」という意識が芽生えてきます。そこではじめて「嫌われる勇気をもて」、「幸せになる勇気をもて」というアドラーの言葉が心に響いてくるのです。

とはいえ「現代社会をマトモに生きること自体が難しい」ということを自覚していない人に、ある日突然「勇気を出せ!」とアドバイスをしても、「社会のほうに問題はないのか?」とか、「わたしが悪いのですか?」と反発される可能性が高いでしょう。

残念ながら・・・・・「嫌われる勇気」はあくまでアドラーの思想を紹介することを目的とした書籍なので、『社会』のレンズに関する記述がほとんどありません。

だから「嫌われる勇気」を読んでも、「現代社会をマトモに生きること自体が難しい」という意識が芽生えることはほとんど期待できないのです。

結果、冒頭で紹介したレビュー主のように、「嫌われる勇気」を読んでみたけど「むしろ毎日がツラくなってしまった」というような感想が量産されてしまうのです。

劇薬を飲む勇気

なぜ・・・・・アドラーの思想が劇薬であるかわかるでしょうか?

日本では「安全・安心」という言葉をよく耳にします。しかし「安全・安心」と百万回唱えても、安全・安心は実現できないのです。

当たり前と言えば当たり前の話なのですが・・・・・たとえば「水も空気も民主主義もタダ」という感覚が染みついた日本人に対して、「あなたが当たり前だとなんとなく信じてるものは当たり前ではなく、コストを支払わないと維持できないのだ」ということを伝えたら・・・・・どうなるでしょうか?

間違いなく不安になるでしょう。だからアドラーの思想は「劇薬」なのです。あなたには、劇薬を飲む勇気があるでしょうか?