アドラー心理学は、ギリシア哲学と同一線上にある思想

「嫌われる勇気」には以下のような記述があります。

わたしは哲学者です。哲学に生きる人間です。そしてわたしにとってのアドラー心理学とは、ギリシャ哲学と同一線上にある思想であり、哲学です。

嫌われる勇気

しかし残念ながら・・・・・『嫌われる勇気』や続編となる『幸せになる勇気』のどこを読んでも、アドラー心理学がどのような意味でギリシャ哲学の同一線上にあるのか?ということは明らかにされていないのです。

ギリシャ哲学とアドラー心理学

アドラー心理学がギリシャ哲学と同一線上にある思想であるならば、ギリシャ哲学について学習した後にアドラー心理学について学習するのが効率的であるはずです。四則演算を学習したあとでなければ微分積分について理解するのが難しいことを想像すれば思い半ばに過ぎるでしょう。

しかし『嫌われる勇気』や『幸せになる勇気』は、あくまでも「アドラー心理学」について紹介する書籍であるため、100回以上繰り返し『嫌われる勇気』を『幸せになる勇気』を読んでもおそらくはアドラー心理学の核心に迫れないのです。

事実、『嫌われる勇気』の続編である『幸せになる勇気』の終盤には、青年と哲人のこんなやりとりがあります。

青年
青年

でも、まだ解決していません!ここで終わってしまっては、わたしはかならずや、道に迷う。なぜならばまだ、アドラーの階段に到達していない!

哲人
哲人

・・・・・たしかに階段を登りはじめてはいません。でも、一段目に足をかけるところには到達しているでしょう。

『嫌われる勇気』で哲人と対話したことがきっかけで、「アドラー心理学の実践をはじめた」はずの青年が、現実社会の荒波にもまれた末に、「アドラー心理学は理想論なのではないか?」と悩み、哲人との対話を再開するのが『幸せになる勇気』なのですが・・・・・

『幸せになる勇気』の終盤になっても、青年は哲人から「たしかに(アドラーの)階段を登りはじめていません。」と突き放されてしまうのです。『嫌われる勇気』と『幸せになる勇気』の読者は、青年と同じ不安に駆られるはずです。「一体、どうすればアドラーの階段に到達し、階段を登り続けることができるのだろうか?」と。

答えは目の前にある

『嫌われる勇気』と『幸せになる勇気』の読者のほとんどが抱えるであろう「一体、どうすればアドラーの階段に到達し、階段を登り続けることができるのだろうか?」という疑問への答えは、実は・・・・・・『嫌われる勇気』の序盤の段階ですでに説明されているのです。

「嫌われる勇気」のイントロダクションには、青年と哲人のこんなやりとりがあります。

哲人
哲人

そう。もしかするとあなたは、サングラス越しに世界を見えいるのかもしれない。そこから見える世界が暗くなるのは当然です。だったら、暗い世界を嘆くのではなく、ただサングラスを外してしまえばいい。(中略)

それでもなお、サングラスを外すことができるか。世界を直視することができるか。あなたにその”勇気”があるか、です。

青年
青年

勇気?

哲人
哲人

ええ、これは”勇気”の問題です。

『勇気』の問題

『嫌われる勇気』のタイトルにも、『幸せになる勇気』のタイトルにも【勇気】というキーワードがあることは見過ごしてはいけません。そう。アドラー心理学の実践に必要不可欠なものこそが【勇気】なのであり、ギリシャ哲学に深くかかわっているのです。

10代の頃からギリシャ哲学の徒であった岸見一郎先生が、アドラー心理学と出会って共鳴したのはおそらく偶然ではないのでしょう。

ギリシャ哲学がどのような思想なのかほんの少しでも理解している人であれば、「嫌われる勇気」や「幸せになる勇気」に書かれていることが本当にギリシャ哲学の延長線上にあることが理解できるはずです。

しかし冒頭で申し上げたとおり、アドラー心理学と同一線上にあるはずのギリシャ哲学について、「嫌われる勇気」や「幸せになる勇気」では説明がされていないのです。ですから読者のほとんどが【勇気】というキーワードの重要性を理解できないのです。

ここまで説明すれば「ギリシャ哲学とアドラー心理学はどのような意味で同一線上にあるのか?」ということが気になるはずなので、古代ギリシャの哲学者ソクラテスを糸口にしてギリシャ哲学についての理解を深めていただきたいと思います。

ギリシャ的 VS エジプト的

古代ギリシアの哲学者ソクラテスは、ギリシャ的なものとエジプト的なものを対比しました。エジプト的なものとは「悪いことはあるのは神が怒ったから、善いことがあるのは神の思し召し」というような発想のことです。

その一方でギリシャ的なものとは、「神に這いつくばったところで、何も生まれないぞ!」というような発想のことです。

ギリシャの人たちは、神への信仰に篤(あつ)い地中海の対岸にいるエジプトの人たちを徹底的に軽蔑しました。なぜギリシャの人たちがエジプト的なものを軽蔑したのかといえば、神に依存すればするほど人間の内から湧き上がる力が失われると考えたからです。

フリードリッヒ・ニーチェは、人間の内から湧き上がる力のある存在のことをシンプルに【超人】と表現しました。なぜ超人である必要があるのか?理由は「この世はデタラメだから」です。

わたしたち人間がどれだけ綿密な計画を立てて世界をコントロールしようと試みようが、この世の真理(デタラメさ)は社会を貫いているのです。だからわたしたちは「想定外」の事態に直面するリスクをゼロにすることはできないわけですが、「想定外」に直面したときに頼りになるのは、人間の内から湧き上がる力です。

悲惨な状況に直面しても前に進み続ける人間だけが、生き延びることができる・・・・・神に祈ったところで、神が絶望しているわたしたちを救ってくれるとは限らない・・・・・と覚悟を決めている存在が【超人】なのであり、ギリシャ的な思想やアドラーの思想の実践者でもあるのです。

遊動段階 VS 定住段階

偉大なる神学者・哲学者・社会学者は、ギリシャ的なものとエジプト的なものを対比させる思考を反復してきました。とりわけ今世紀(21世紀)に入って以降、認知考古学・進化生物学などの諸分野で、かつての人類学的二項図式に注目が集まっています。

人類学的二項図式
  • ギリシャ的 VS エジプト的(ソクラテス)
  • 主意主義 VS 主知主義(フリードリヒ・シュライアマハー)
  • 自立 VS 依存・没主体(マックス・ウェーバー)
  • 想像界 VS 象徴界(ジャック・ラカン)
  • 心ある道 VS 心なき道(見田宗介)
  • 内発性 VS 自発性(宮台真司)

人類学的二項図式に挙げたそれぞれについて説明するのは長くなりすぎるので、ここでは「主意主義」と「主知主義」について取り上げましょう。

主意主義 VS 主知主義

主意主義では「この世には不条理や理不尽が満ちている」という前提のもと人間の意思を出発点にします。その一方で主知主義では「人間の知識はすべての不条理や理不尽を回避できる」という前提のもと、「意思以外の何か」を出発点にします。

例えば「マクドナルドのビックマックセットが食べたい」という欲望がどこからともなく降ってきたとします。ビックマックセットを食べるという決断を下した場合、「自分の意思」を理由にするのが主意主義的な立場で、その一方で「マクドナルドのCMをたまたま見かけたから」とか「お得なクーポン券があるから」等、意思以外の何かを行動の出発点にするのが主知主義的な立場です。

もう一つ例を挙げましょう。強盗が人を殺してお金を奪う事件が発生したとき、強盗が「アイツを殺して金を奪ってやろう」と意思したから人を殺したのだと考えるのが主意主義的な立場で、強盗が人を殺したのは「悲惨な生い立ちや社会状況が・・・」などと考えるのが主知主義の立場です。

ですから必然的に主知主義者は「悲惨な事件が起こらないように社会を良くしなければならない。」と考えるわけですが、その一方で主意主義者は「どれだけ社会がよくなっても、人が幸せになれるとは限らない。」というように考えるのです。

嫌われる勇気

以上、ギリシャ的なものとエジプト的なものおよび、主意主義的なものと主知主義なものを比較しました。

冒頭で「アドラー心理学とは、ギリシャ哲学と同一線上にある思想であり、哲学です。」という哲人(嫌われる勇気に登場する先生の名前)の言葉を紹介しましたが、「嫌われる勇気」を読んだあなたなら、その意味がわかってきたのではないでしょうか?

つまりアドラー心理学は「この世には不条理や理不尽が満ちている。出発点になるのは意思。」というような思想の延長線上にあるのです。だから「嫌われる勇気」には「この世の不条理や理不尽をかきわけて前に進め!嫌われる勇気をもって!」というメッセージが込められているのです。

しかしアドラー心理学はギリシャ哲学と同じものではありません。あきらかにギリシャ哲学を「超えたもの」です。どのような意味で超えているのか?という疑問については、機会があれば詳しく解説したいと思います。

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